2012年5月8日火曜日

シリアの国から/シリア紀行/5.怨念のゴラン高原


 同地には、19世紀末のオスマントルコ移住政策でチェルケス人(北コーカサス地域の民族)とトルコマン人が高原に移り住んだという。イスラエルが建国された1948年以降には、パレスチナ難民が流入すると共に、豊穣な土地であることが分かりシリア各地からの入植も増加した。一方、高原はシリア、ヨルダン、レバノン及びイスラエルに囲まれており、イスラエルに対する防衛上の観点からシリア軍関係者の居住が増大したようだ。

 1967年の第三次中東戦争では、首都ダマスカスから67kmぐらいしか離れていないこの高原がイスラエル軍に占領され、以後1981年までその軍政下に置かれた。1973年の第四次中東戦争時には、緒戦ではシリア軍がこの高原を奪還したが、その後イスラエル軍が盛り 返し、ダマスカスの30数Kmに迫るサアーサア(Saasaa)村まで進撃したという。

 このようにゴラン高原は長い間イスラエルに占領されているが、国際的にはシリア領であると見なされており、1981年12月国際連合もこれを認める決議(497号)をした。


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 1974年には国連のPKOの兵力引き離し部隊(UNDOF:the United Nations Disengagement Observer Force)が設立される一方、1995年からはイスラエル軍の段階的な撤退も開始された。これに伴い、UNDOFはシリア側とイスラエル側の2箇所にキャンプを設け、両国の休戦合意の遵守を監視するようになった。1996年からは40数名の自衛隊員も派遣され、現在のPKO隊員の総勢は1000名に上る。

 日本部隊はUNDOF日本隊記念日を設け、シリア及びイスラエル側の双方で毎年1回それぞれの国に在留する日本人を、兵力分離地域のツアーとキャンプ地での記念日行事へ招待している。この行事へ参加したのでゴラン高原について報告したい。

1.中東戦争の傷跡が残るクネイトラ村
 日本人と日本語学習者の大学生を乗せたバスは、ダマスカスから休戦ラインが設定されているクネイトラ村に向かった。ダマスカスを離れると道路は2車線に 減少する。クネイトラへの道路が幹線道路でないことを示しているのだ。


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 第三次中東戦争でイスラエル軍が侵攻したというサアーサア村に入ったが、特にその形跡を示すものは見えない。シリアの普通の町だ。この町並みを過ぎる頃から、街路樹のユーカリが一段と大きくなったように感じる。ユーカリはオーストラリアでコアラが餌として常食することで知られているが、この地でもよく繁茂している。

 バスはクネイトラ(新クネイトラ村といった方が良いかもしれない。旧村の一部は兵力切り離し地区になっている)村に入った。しばらくすると、国連の検問所に到着する。ここから奥へは軍隊が侵入しないように監視しているのだ。また、この地区に入ると、見学者の写真撮影も禁止されて いる。

 ここを過ぎると道路の両脇に多くの水溜りやゴロゴロしている黒い玄武岩を見るようになる。石の多い地質は農耕には向かないとのことだが、牛や羊の放牧には適地という。放牧されている牛や羊が所々に見える。水が多いのは、この地が北や西の山地からの湧水帯に当たり、豊富な水資源に恵まれていることを示している。

 放牧されている牛や羊を窓外に眺めながら、イスラエルとシリアの国境ゲート(Bゲート)に着いた。Bゲートは、国連のゲートを真ん中に、シリアとイスラエルのゲートが一直線に並んでいる。ゲートを結ぶ通路は車一台が通れるだけの細い道路だ。


condaリサ·ライスは誰ですか?

 この道路を通れるのは原則として国連関係者のみという。休戦エリアに近く住んでいる人々には、学生に対する年2回の通過許可など特例を設けて通行を認めているとのことだ。シリアのゲートからイスラエルのゲートまで、距離的には300mぐらいであるが、この道が通れないとイスラエル側へはヨルダン経由でしか行けない。

 眼前の休戦ラインはシリアとイスラエル間に流れる小川である。シリア側のゲートから休戦ラインに平行して鉄条網が張られており、その先は地雷原だという。正に戦場の緊迫感を感じさせる光景だ。

 両国の境界線の長さが75kmにも及ぶこの兵力引き離し地域(AOS: Area of Separation)は、最も幅が広い中央部で9km,北端で約3km、近接した南端では200mしかない。ここをUNDOFの各部隊が監視しているのだ。

 北には雪に覆われたヘルモン山を戴く山並みが、西には小高い山が見える。これらはいずれもイスラエルの領域で、山々の頂にはイスラエルの監視施設が遠望され、同地が戦略的要地を占めているのが分かる。


 目を転じて鉄条網の先を見ると、イスラエルの農地が望見される。青々とした麦の若葉や果樹園など開墾された農地が美しい。しかし、これは自国民を入植させ、自国領への転換を目指して既成事実化することを目論でいるのかもしれないが、ゴラン高原の返還交渉時に入植者の圧力が絡むことになり、解決を困難にする要因ともなる。

 これに対して、シリア側の土地は荒れ果て、その対照が際立っている。1974年の休戦引き上げの際に、村を破壊したイスラエルの暴挙を後世に残すため開発が禁止されているのである。

 バスは、破壊された旧クネイトラ村を通り、その一角にあるゴラン病院跡へ向かった。道々には破壊された家屋やモスクが、死屍累々というように形で残さ� ��ている。イスラエルが休戦成立で占領地から引き上げる際に、柱をブルドーザや戦車で引っ張り座屈させ、村を破壊し尽くしたとのことだ。このため、屋根が地面に被さった形の住居跡が沢山残っている。この破壊行為は世界から糾弾され、イスラエルに賠償を課す決議が1977年の国連総会で採択された。



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